弁護士という仕事柄、環境問題への関わりは、裁判やその前段階である問題・紛争の解決が主たるものである。その立場の多くは、企業側での代理や相談であるが、振り返ると古くは大気汚染公害訴訟、近年は原発関係の問題に携わっている。
弁護士から見た環境問題
私が弁護士になった1986年は、未だ複数の大気汚染公害訴訟が裁判所に係属しており、程なく、ある大規模な大気汚染公害訴訟の被告企業側弁護団に加わることになった。裁判が提起されたのはベルリンの壁崩壊前であり、いささかイデオロギーに過ぎる原告側代理人が、ややもすると、大企業本位の資本主義が公害を生んだなどと主張するのに驚いたのを覚えている。実際には、大気汚染公害が裁判になっている場所の多くは臨海工業地帯であり、被告大手企業の工場の排煙が近隣にどれだけ滞留しているかは疑問が少なくなく、しかも、被告企業を取り巻く中小企業には対策の遅れている工場も見られたが、被告とされている大企業では公害対策が既に相応に進んでいた。むしろ、伝統的な窯業などが蝟集する山あいの町では住民から大気汚染が問題とされることがなく、実態は深刻であったが、裁判の結果は、「被告企業敗訴」がいわば「お約束」で、必ずしも客観的なデータが重視されているのか、疑問の残るものであった。
その後も、ごみ処理施設によるダイオキシン汚染問題、土壌汚染問題等に遭遇したが、住民などの反対運動は、自ら十分なデータを収集することの困難もあろうが、時としてデータ上は汚染が見当たらず、感情的な反発に端を発したと思われるケースが見られたうえ、決して科学技術的な知識に長けているとは言えない裁判官も、「環境問題」と言われると、その言葉に動揺するのか、「環境問題なので」と科学データを超えた配慮をする傾向が続いたように思われる。
時代は下って、根強い反原発運動は残っていたものの、温暖化ガス問題などを理由に原子力発電の推進が図られるようになった。ところが、福島第一原発の事故以来、再び反原発の運動が勢いを盛り返し、最近では、高浜原発の再稼働差し止め裁判(仮処分事件)で福井地裁が差し止めを認めるなど、原子力発電所の再稼働には強い逆風が続いている。もっとも、福井地裁の決定も、科学技術的な検討の結果というよりも、「原発は何となく不安」という感覚論がそのまま裁判所の決定になってしまったようである。
感覚論ではない性格なデータの蓄積を
大気汚染・土壌汚染も放射能も、目に見えないものである。そのため、実は深刻な汚染環境に暮らしていても気付いていない住民もいるのではないかと思われるが、他方で、健康レベルに影響は認められなくても、目に見えないために却って不安を感じている住民も多いように思われる。しかし、単なる感覚論では議論は常にすれ違いになってしまう。しかも、温暖化ガス問題などは国際社会では重要な問題として扱われており、放置は許されない状況にある。「科学技術は万能ではない」という意見は目にするが、環境問題においては、科学技術を尽くして可能な限り正確な情報を収集し、問題があれば対処して解決しなければならないし、単なる不安であれば正しい情報に基づく安心を提供する必要があるであろう。この点で、環境問題に対しては、モニタリング技術の水準向上やモニタリングの量と質の拡充により、議論の共通の基礎となる正確なデータの蓄積は不可欠であり、そのうえで本当に必要な施策は何なのか議論することが必要なのではないかと、常々感じている。